無料で雨風凌げて横になって休めるところを教えてくれ

https://digital.asahi.com/sp/articles/DA3S14824917.html

「刺繍糸」　川上未映子

"ベンチにいると、色んな人の声が聞こえてくる。小さな子どもを遊ばせているお母さんたち。スマートフォンを覗（のぞ）き込んでいる恋人たち。おしゃべりの止まらない学生たち。「感染しても、言うメリットってないよね。もちろん自主的に隔離はするけど、言わないよ。だって子どもが苛（いじ）められるもん」「わかる、わかる。それが本音。風邪だって思い込んで、寝るしかないね」。

　ふつうなら誰かに聞かれるとまずいなと思うような内容でも、ちらりと目をやって、そこにいるのが雅子なら、誰も気にせず話をつづける。雅子も、聞こえないふりをする。時計はまだ二時。そういえば、人生は何時間？　子どものころ計算してみたことがあったけど、数はもう、忘れてしまった。

　大きく、底をさらうような風が吹く。包装紙のちぎれたのや、葉っぱや、ビニル袋はふわりと浮いてここではないどこかに移動するのに、どんなに強い風が吹いても、雅子の体は動かない。

　兄に電話してくれ。夫の言葉を思いだす。夫の兄だ。雅子にはきょうだいはいない。母が死んで、彼女はひとりだ。店が潰れ、一日じゅう家にいるしかない夫は、兄に電話して金を送ってもらえと言う。おまえから頼んだほうが兄も渡しやすいんだ。電話の画面をじっと見る。夫から送られてきた番号。指が触れれば、鳴って、出るかもしれない。でも、なんて言えばいいのかわからない。どうやって話を運べばいいのか、想像もつかない。金額は？　うまくやれ、とにかく金をひっぱってこい、と夫は言う。あいつにはでかい貸しがあるんだからな。あんな兄貴でも可能性があるだけましだ、それに比べておまえには、こういうときに使える親戚も知りあいも、誰もいない。
　番号は押せない。商業高校を出て、就職もできず、アルバイトをつないで生きてきた雅子には、金がない。何かに遣（つか）ったわけではない。その日を生きるために、ただ生きてきただけだ。人を騙（だま）したこともない。難しい仕事はできないけれど、工場で、クリーニング屋で、うどん屋で、雅子は自分のできる限り一生懸命に働いた。それらの日々が、ただ今に、つづいているというだけだ。何かを選んだわけでも、何かを断ったわけでもない。それがだめだったのだろうか。それが、わるかったのだろうか。
おまえはいいな、気楽でな。夫は酔うと雅子にからむ。最近はずっと、それがつづく。何時間も、一晩も。この先、どうすればいいんだよ。頭がおかしくなりそうだ。いいよな、おまえは。何も考えないでも、生きてこられたんだもんな。女はいいよな、責任がなくて。女のホームレスって見ないだろ。わかるだろ、それでぜんぶ。おまえらは気楽なもんだよ。

　ああ、そうかもしれないと雅子は思う。自分はいま、こんなふうに歩くことができて、雨風をしのげる家があって、どこからも血が流れていなくて、息ができているのだから。今はもっと、大変な人がいる。苦しんでいる人がいるのだ。守らなければならない物も人もいない自分は、とても恵まれているのだと雅子は思う。

　時間がくる。遅れても早くても、夫の機嫌はわるくなる。雅子は立ちあがって、来た道を戻る。

　道端に、何かが落ちている。近づいてみると、それは刺繍（ししゅう）糸だった。束ねる封がついたままの、新しい、つややかな純白の刺繍糸。買ったまま、誰かが落としていったのか。雅子はそれをじっと見て、少し迷って、拾いあげる。歩きながら糸をほぐす。そして、ひとさし指に巻きつける。血が止まって、指先がむらさき色に変わるまで、きつくきつく巻きつけて、雅子は少し笑ってしまう。刺繍糸では4ねないな